とある日の独歩さん

 定時はとっくに過ぎていて、オフィスのライトがまばらに暗い室内で、カタカタと軽快なキーボード音が鳴り響く。

「お疲れ様です。独歩さん、今日も課長に仕事を押し付けられて残業ですか?」

 オフィス内はところどころ消灯され、薄暗いというのにわたしのデスクから斜め前、万年残業組である独歩さんのデスクには煌々と明りが点っていた。
 パソコンのモニターから椅子だけをくるりと回してこちらに向き直った独歩さんは、暗いオフィスでも分かるほど疲れた顔をしていて、最早トレードマークとなりつつある目の下の隈は心成しかいつもより一層濃く刻まれているようだ。

「ああ、お疲れ様です……」
「うわ。その書類の山、全部今日中のノルマですか? え、何時くらいに押し付けられたんですか?」
「ええっと……あれは確か僕が営業まわりから帰ってきた頃なので夕方の5時半から6時くらいですかね………明日の会議で使うから、今日中にまとめろと言われて」
「嘘でしょその量を!? ざっと見ただけでも2、300頁くらいありそうなんですけど。それ会議資料としてまとめろって言われたんですか? ええ、定時後に平然とその量の書類を押し付けて来るなんて、相変わらず課長の嫌がらせえげつないですね」

 苦笑いを溢しながら言葉を返せば、お決まりの「はは……」という薄っぺらい笑い声が返ってくるだけで、独歩さんの顔はいつも通り、否いつも以上に覇気がなかった。

「それ、チーム外に漏らすとまずい機密情報の含まれる書類ですか? 一通りざっと目は通してますよね。問題ないようでしたら、今まだ独歩さんの手を付けてない分を手伝います。一人でやってたらまた終電なくなりますよ」
「えっ!? や、そんな悪いですよ! 貴女には前にも世話になったし」
「わたしは営業事務ですから。いくらチームが違うとはいえそもそも営業の補助が仕事なんです。だから、お手伝いできることがあればさせてください」
「でも……今日は金曜日だし、元はと言えば俺の仕事なのに……申し訳ない」
「金曜日だから、です。それに元を言うなら課長の仕事だし。独歩さん来週末に麻天狼の活動があるって言ってたし。わたし麻天狼好きなんですよね」
「えっ……なんでそれを………。ああ、そうか。君も一二三のファンの女性なのか………」

 わたしの言葉に驚いたような表情を浮かべるが、直ぐに回答を自分の中で導き出したらしく、納得したように呟くと、独歩さんはふぅ、と大きく溜め息を吐いて椅子の背もたれに寄りかかって、天を仰いだ。

「色々言いたいことはありますけど、まず初めに独歩さん自分が思った以上に独り言凄いんで、席が近いから聞こえちゃうんですけど、この前普通にいつも通り課長に押し付けられた仕事をこなしながら、来週末のこと話してましたよ」
「……うわ……最悪だ……」

 やっぱりアレ無意識だったんだ。独歩さんの反応に思わず笑ってしまった。
 普通に課長がサッサと定時で帰ったのを良いことにハゲ課長への怨みつらみ、それから自分を下げるネガティブな言葉をひたすらにブツブツと呟いているものだから、今日も社畜極まってるなとは思っていたけれど。
 わたしの言葉に、独歩さんは天を仰いでいる姿勢はそのままに、両目を手のひらで隠すように覆ってしまう。

「ごめんなさい、本当にすみません。これも俺がこの世に生を受けてしまったのが悪いんだ……俺という存在が地球の温暖化にも悪影響を及ぼしているんだ……」
「あと伊弉冉さんのことは格好良いとは思いますけど、わたしが推してるのは別の人です」

 ネガティブモードに突入した独歩さんには慣れきっているので、適当にあしらいながら、勝手に彼のパソコンを操作して、独歩さんが既にまとめたであろうエクセルファイルにざっと目を通しながら、独歩さんのデスク上に散乱している書類から関連性が低く独歩さんの作成中のデータには使用しない未着手の資料を適当にピックアップしていく。
 この時間からこれ全部に目を通すのは流石に骨が折れるが、既に全体に目を通したであろう独歩さんが要点をまとめたメモが挟まっていたので、有り難くそれを活用させて貰おう。
 そんなことを考えながら、簡単にマクロを組んでデータを入れ込むだけで明日の資料に使えるように最低限の体裁は整えておこうと算段を立てていく。

「……となると、先生ですか」

 一通り終電までに帰れるような段取りを頭の中で構築していると、いつもに増してボソボソと呟かれた言葉に、一瞬なんの話だったかと素で思ってしまった。
 脳みそはすっかり仕事モードに切り替わっていたので、ワンテンポ遅い雑談に頭が追いつかなかったのだ。

「そこで自分は当然のように除外するのが、独歩さんらしいですねえ」

 自己評価の低さ極まれり。
 わたしが特に好きでもない残業を何回も繰り返してまで何度も手助けしているのは、この不器用で不憫なワーカホリックを放っておけないのと、単純にこの人の手助けをして少しでも好感度を上げたいという下心からに他ならないのに。

「一仕事に取り掛かる前に、とりあえず給湯室でコーヒーでも淹れようと思いますが独歩さんも如何ですか?」

 先ほどのわたしの言葉の意味が理解できなかったのか、目をぱちくりさせたままの独歩さんを放置して、まぁ要らなかったら後で処分しようとカップを2つ用意して給湯室へと向かう。
 どブラックでクソみたいな職場だけど、ここのコーヒーメーカーだけは気に入っている。事務ということで備品の管理も仕事のうちであるわたしが独断と偏見で自分の好みの豆をチョイスして常備しているからだ。
 豆をセットして、あとはボタンを押せば勝手に淹れてくれるので、その間に給湯室から見える独歩さんの背中を盗み見る。

 すこしだけ猫背気味の後ろ姿に、草臥れたスーツ。
 薄暗いオフィスに残っているのは今やわたしと独歩さんの二人だけで。
 カタカタとキーボードを叩く音と、コーヒーメーカーの稼働音だけが淡々と部屋の中に響いていた。

「お待たせしました」

 はいどうぞ。と、背後からわたしが淹れたコーヒーを差し出したとき、独歩さんは大袈裟なくらいびくりと背中を震わせてこちらを振り返った。

「あ……す、すみません。わざわざ僕の分まで」

 しばらく呆然としたように動かなかった独歩さんは、思い出したように顔を上げると、おずおずとコーヒーカップを受け取った。

「いえ。自分のついでみたいなものだし。一杯も二杯も手間はそう変わらないので」
「いや……でも、あの」
「それに。わたし、独歩さんのこと応援してるので」

 何かを言い掛けた独歩さんの言葉を遮るようにわたしがそう口にすれば、彼は面食らったようにその場で固まってしまう。
 そんなに驚かなくても。他の二人が違うと分かった時点で、先ほどの物言いで察しのいい人なら分かっただろうに。

「わたしの推しは独歩さん、あなたですよ」

 わたしの口から発せられたその言葉に、独歩さんは一瞬言葉の意味が分からない、と言うように小首を傾げたが、すぐにその言葉の意味を飲み込んだらしく、途端にキョロキョロと目を左右にゆらし、気まずそうな表情を浮かべた。

「なんで独歩さんがそんなに気まずそうなんですか」
「いや、だって…………え……? こ、………こんな陰気なネガティブで地味な男応援しても、貴女が他の人からブーイングを食うだけですよ………」
「推しって、他人から強要されるものじゃないですよ」

 わたしの言葉に、独歩さんは分かりやすく言葉を失ったと言わんばかりに口をはくはくと開閉させて、「そ、そうか」とか「いやでも」なんてブツブツと言葉を漏らしている。
 けれど結局上手い言葉が見つからなかったのか諦めたのか、それとも照れ隠しか曖昧に笑ってお礼を告げてくると、コーヒーを啜った。
 あんなに凄いのにそれに反した相変わらずの自信のなさにすこし笑いながら、くるりと椅子を回してわたしも自分のデスクに向き直り、キーボードを鳴らしながら、作業の合間にぽつぽつと背中合わせの雑談を繰り返して。

「独歩さんの自己肯定感ってびっくりするほど低いけど、独歩さんが気付いていないだけで独歩さんのことを応援している人、絶対たくさんいますよ」
「いや、でも他の二人はもっとずっと凄くて。それこそ雲の上のような存在で。俺は空気みたいなもので、下手をしたら認知すらされていないかもしれませんし」
「もしも仮にそんな残念な人がいるなら、人生の半分損してるねって笑ってやります。それに、それならその分わたしが二倍も三倍も推せばいいだけですよね」

 そう断言すれば、独歩さんは困ったように、けれど何処かくすぐったそうな声色で笑って「ありがとうございます」と呟いた。

「とりあえず簡単なマクロは組み終わったので、こっちはあと最低限のデータを入れれば形になりますよ」
「えっ、もうできたんですか? 流石……俺なんかとは出来が違うな」
「全然全然。独歩さんの担当しているところは専門用語が多いしまとめるのに時間がかかるところだったので、残ってた部分が割と早く処理できるものばかりで助かりました」
「いやいやいや。俺なんて全然……。結局今回も手伝って頂いたお陰で、休日返上しなくて済みそうです。本当に、いつもありがとうございます。その、僕なんかに親切にしてくださって」

 パソコンを操作して、作成したエクセルファイルを独歩さん宛てにメール送信する。そうして大きく伸びをして椅子に座ったまま、キャスターを利用して、拝借していた資料を返すために再び独歩さんのデスクへと近づいて行く。
 独歩さんは謙遜したようにそう言って、コーヒーの水面に向かって視線を落とした。

「流石に全部に目を通すのきつかったんで独歩さんの註釈、とても読みやすかったしまとめにも大活躍でした」
「貴女は優秀で、本当に。他人の考えを先回りできるし、俺なんかよりずっと営業に向いてますよ。本当に今回はなんとお礼を言って良いか……お陰で会社で二徹は免れました」

 ははは、と空笑いを漏らしながらデスク下の寝袋を指さして、口元だけ笑みをつくる独歩さん。
 彼が終電に帰れず数日同じスーツで出勤するのは珍しくなく、今日もてっきりそのコースだと思っていたからか本当に晴れやかな顔をしていた。

「それなら良かった。あ、そうだ。自分からお礼請求とか厚かましいし失礼は承知の上なんですけど、次のイベントのチケット一枚余ってたりしませんか。今回予約時間どうしてもトイレ休憩とれなくて」
「そんなので良いんですか……??」

 そんなの、と言うが麻天狼といえば今や知らない人の方が少ない、シンジュク・ディビジョンを代表するMCグループだ。そのチケット争奪戦は激しく、今回再販まで待ったが悲しいかな負けてしまったのだ。

「自分で気付いてます? いつもの仕事での鬱蒼とした独歩さんとは違う、麻天狼の活動をしてる時の独歩さんって凄くキラキラしてるんですよ。わたしはそんな独歩さんを見るのが大好きなんです」

 最初はまさかこんなに根暗な同僚があのグループの一員になるだなんて想像もしていなかったが、今ではすっかりと彼のギャップにやられてしまっている。

「だからね」

 そこで一拍言葉をとめて。

「仕事中の独歩さんも、麻天狼でキラキラしてる時の独歩さんも全部全部、大好きですよ」

 いたずらめいた笑みを浮かべて、独歩さんの耳元で内緒事を話すように囁けば、次の瞬間彼はまるで漫画のように、ボンっと顔を真っ赤にして口を戦慄かせるものだから、わたしは推しのそんな可愛らしいリアクションにまた、大笑いしてしまったのだった。