さよならだけの恋でした

※悲恋注意

 ――ここは誰も知らないふかいふかい海の底。そうしてその最奥には、ひっそりと海草たちに隠れるようにして建つ御殿がありました。
 珊瑚の壁、琥珀の窓、1つ1つに立派な真珠があしらわれた貝殻の屋根。キラキラと輝くそれはまるで宝石箱のよう。
 御殿のまわりには、いつだって海の生き物たちが何処かうっとりとした表情を浮かべながら楽しそうに泳いでいるのです。
 そんな御殿に棲むのは海のおとめ、人魚たち。御殿に遊びにきた魚たちとは大の仲良しで、お喋りをしたり、一緒に御殿のまわりとくるくると踊るように泳いだり歌を歌ったり。

 これは、そんな穏やかな世界に生きるひとりの少女の物語です――。

 
さよならだけの恋でした

  

 エリサは退屈していた。
 立派な御殿に、心優しいものたちに囲まれ笑い合う穏やかな日常。仲良しの人魚や魚たちと海を冒険したり、お喋りをしたり一緒に泳いだり歌ったり。
 特別なにが不満という訳ではない。むしろ好ましい日々と言えるだろう。けれど、けれど平坦なだけでは、何かが足りない。

「……つまらないわ」

 ボソリ、と呟いた言葉は思いのほか大きな音と成ってエリサの隣にいた友人の耳にまで届く。

「あら、エリサったらどうしたの、突然?」

 小首を傾げながらふんわりと笑う彼女の頭には、きっとエリサのような考えなど浮かんだ事がないのだろう。恋人である魚と寄りそい、幸せそうにはにかんでいて、エリサの目から見ても”シアワセ”そうだ。

「なんでもないわ」
「そうかしら。拗ねた顔をしてるわ。なにか悩みでもあるの?」
「……二人ともありがとう。悩みがあるわけじゃない、大丈夫よ」

 まるで自分の事のように辛そうに眉を下げ、エリサの顔を覗き込む友人と、友人の彼である魚がエリサのまわりを心配そうにクルクルと泳ぎ回っていて、エリサは苦笑い気味の首を横に振る。
 強がりを言ったわけじゃなく、本当に悩み事があるわけじゃない。ただ、何かが物足りないと思っただけなのだ。

「あ。エリサも恋をしたらどうかしら」
「……急に何を言い出すのかと思えば…」
「あら、急じゃないわ。エリサは可愛いからとってもモテるのに、そんな素振りも見せないからずっと心配してたの。それに、恋をすれば退屈だなんて感じる暇もなくなってしまうわ」

 それがいい。名案を思いついたと言わんばかりにポン、と手を叩き、友人は楽しそうに笑う。
 エリサの事を心配しているというのは本当だろうが、それ以上に自分が楽しみたい、という年頃の少女らしい好奇心が見え隠れしていて、エリサは思わず苦笑いを零してしまった。

「私は良いわ。まだ、恋なんて」
「絶対に恋なんてしないって顔してる。でもね、エリサ。それは不可能よ」
「どうして?」

 同年代の友人と比べてみても明らかに発育の良い身体、スラリと伸びた手足、パッチリと大きく開かれた瞳、桜色の唇、透き通るように白い、けれど病的ではない健康的な肌、大人びた性格。
 そのどれもがエリサを美しく輝かせ、異性だけではなく同性をも惹き付ける魅力を引き出している。エリサもまた自身の魅力を自覚しているものだから、どうすればより自分が輝けるのか、その術をよく知っているのだ。
 エリサのまわりにはいつだってエリサの魅力に惹かれ近付いて来る輩が集まっていて、エリサに焦がれる者らから紡がれる甘い言葉など、とうに聞き飽きている程で。

「恋は落ちるものっていうでしょう?きっとエリサもいつか、誤摩化せないくらい好きになる人が現れるわ。眠っていても、誰と居ても、何をしていても、その人の事を思い浮かべてしまう、その人の為ならどんな事だってしたい。そんな日が来る」

 普段からどこか冷めた考えを持っているエリサだが、こと恋愛に関してはそれが強くなる。エリサが置かれた環境に問題があるのだろう。
 友人が言うような恋愛が、エリサに出来るとはどうしても思えなかった。

「誰もがそういう恋愛をする訳じゃないわ」
「そうね、でも――私はエリサがそれだけ好きになれる誰かが出来ることを願っているわ」

 まるで母のように慈愛に満ちた笑みで、ふわりと微笑まれて。エリサはどんな言葉を返すことも、出来なかった。

 ※ ※ ※ ※

 エリサが好きなもの。それは海の世界に溢れているが、中でも最近お気に入りなのが冒険をすることだ。
 人魚の中ではまだ幼いエリサは、未だひとりで人間の棲む海の上まで行くことは禁止されている。しかし、エリサは何度か幼馴染を連れ立って岩陰からコッソリと海の上を覗き込んだ事があった。
 みどり色をした大きな樹の集まり、かおりのする花、楽しげに囀る鳥の声。そのどれもがエリサには物珍しいもので、何度だって言いつけを破っても覗きたい衝動に駆られるのだ。

「あいつ、残念がるかしら」

 今日も同じように幼馴染を連れ立って冒険に行こうと、御殿から少し離れたところにある集落を訪れたが、幼馴染の姿は見つからなかった。幼馴染の友人に聞けば、どうやら用事を頼まれてオツカイに行っているらしい。
 ――相変わらず人のいい奴だ。
 そう思いながら、エリサは幼馴染の事などとうに頭からスポンと抜け落ち、初めてのひとりでの冒険に胸踊らせていた。些か幼馴染の扱いが雑だが、良いのだ。二人は昔からそういう力関係だったのだから。 

 海の底から、ゆっくりゆっくり上へ。
 海底とは違う、月光に照らされキラキラと輝いていく海の色に逸る心。思わず口許が緩み、ガラにもなく鼻歌を歌ってしまう始末。つまりは完全に浮かれていた。
 そうしてエリサが海の上からひょこりと顔を出すと、だいぶ離れたところに大きな船が横たわっているのが見えた。水夫たちが帆綱や帆げたに腰を下ろし、楽しげになにかを話している。

「あら…あれはなにをしているのかしら」

 何度か海の上に上がった事があるエリサは、それが船であるということはとうに知っている。けれど、あんなに大きな船は未だ見たことがなかったのだ。
 小首を傾げながら耳を澄ましてみれば、なにやら楽しげな音楽が聴こえて来て。月明かりに照らされ心もとない暗い海を、大きな船に積まれた大量のランプが照らす。船に飾られた色とりどりの国旗がはためき、甲板では水夫たちは楽しげに歌やダンスを披露していた。
 そうして着飾った沢山の人間の中にひときわ目立つ存在を見つけ、エリサは恐る恐る船へと近付いていく。時間を掛け覗き込める程の距離まで近付けば、こっそりと船の中を覗き込んだ。
 するとエリサの瞳に映ったのは穏やかな笑みを浮かべながらも、何処か不思議な雰囲気を持ったひとりの美しい男性の姿で。

「……ッ、」

 思わず息を呑んで、エリサは食い入るように男の姿を見詰める。何故だかはわからないが目が離せなかった。
 まわりに態度から言って、恐らくその男が主役の催しなのだろう。やがて盛大な花火が打ち上げられ、その大きな音に驚いたエリサは思わず水の中へと潜る。…その音に驚かなければ、朝が来るまでずっとエリサはその場で固まっていたかもしれない。それほどまでに、衝撃を受けたのだ。
 少しして花火の音にエリサの耳が慣れた頃、ひょこりと水面から顔を出し、先ほどと同じように男の姿を瞳に焼き付けて。…エリサはどうしてかむずむずする胸をぎゅっと掴んでほう、と息を漏らす。エリサは飽きる事なく、いつまでもそうして男の姿を眺めていた。

 そうして時を刻んでいれば、やがて夜がふけ祭りも終わりを迎えたのだろう、花火もランプの光もなくなり、静かな闇の訪れを感じた頃、水に揺られていたエリサは、違和感を感じ辺りをきょろきょろと見渡す。

 風が、強い。――嫌な空気だった。

 エリサの嫌な予感は当たってしまい、どうすれば良いと辺りを見渡しているうちに、ついには波が高くなり、大きな黒雲が遠くに稲妻を落としたのだろう、激しい音と光に嵐の訪れを嫌でも感じさせる。
 船の上では慌てた水夫らが忙しそうに動き回っている。海に棲むエリサにとっては慣れっこの強い波も、普段は陸に暮らす人間にとってはたまらない脅威なのだろう。
 ぎいぎいと嫌な音を立てて、高波に呑まれかけの船。頑丈なはずの船板も、横腹を当てられ曲がってしまい、マストはぽっきりと折れ船は横たえ、うしおが容赦なく船に流れ込む。ついに耐えきれなくなった船は、乗客を海原に投げ出し自身も飲み込まれるように海へと沈んでいく。
 このままでは、皆死んでしまうだろう。それどころか壊れた船に巻き込まれ自分の身も危ない。どうすればいいのか。
 まだ幼いエリサには、船の上にいたすべての人間を運ぶ力などもちろんある筈もなく、力を振り絞って運べたとしても1人か2人が精々だ。
 そこまで考えて、あの美しい人間の姿を思い浮かべる。恐らく何処かにあの人がいるはず。人間はエリサのように、水の中で生きてはいけないのだ。このまま時間が経てばやがて衰弱して死んでしまうだろうというのは、エリサでも容易に想像がついた。
 エリサは必死に男の姿を探した。いままで生きてきた中で一番、真剣に。この腕に男の温もりを抱くことを夢見て。

 エリサが男の姿を見つけた時には、既に荒れ狂う海に力を奪われ、意識を手放していた後だった。エリサは大慌てで男の身体を掻き抱き、水面へと上がっていく。
 そうして心臓に手を宛てがうと、男の力強い脈動を感じ、ほっと安堵の溜息を漏らすのだった。
 そうして男を手放すまいと強く強く頭を抱き、波が自分らを運んでくれるままに身を任せる。そうして嵐が去り嘘のように穏やかな波へと戻った頃、エリサは流れ着いた先から一番近い陸地へと男を運び込んだ。
 濡れた髪の毛が頬にへばりつき、ただでさえ冷えきった身体から熱を奪っていく。エリサは優しく髪をかき上げ、まるで氷のようにひんやりと冷えきってしまった頬に自分の手のひらを宛てがい、少しでも熱を分けてあげられるように、と冷たい顔に自身の頬を擦り寄せた。
 自分のものとは違う、ガッシリとした肩。大きな手のひら。微かに動く喉仏。そのどれもがエリサの心をたまらなくムズムズとさせる。

「……はやく貴方の瞳の色が知りたいわ」

 遠目からでは、瞳の色までは見えなかった。この人はどんな声で言葉を紡ぐのか、どんな瞳の色で世界を眺めているのか。…どんな、人なのか。
 普段なら気にもとめないであろうそんな些細な事が気になって仕方ないエリサは、先ほどよりも穏やかになった男の寝顔をぼんやりと眺めて、微かに口許を緩めた。
 いつまでも、こうしていたい。エリサの心に芽生えた小さな気持ち。けれど、そんなかわいらしい少女の願いは”人間に見つかってはいけない”という決まりが枷となる。すっかりと明るくなってしまった今、エリサがここに居ては直ぐに人目についてしまう。それに、男もじきに目を覚ましてしまうだろう。
 エリサは名残惜しい気持ちから何度も横たわる男を振り返りながら、やがてギュッと唇を噛みしめ、意を決したように水面へと潜っていった。

 男の温もりに頬を赤らめ、自分の住処である海底へと潜っていく。その表情は、恋する乙女そのもの。
 ――この出会いが悲劇のはじまりだなんて、知る由もなく…ただ、ただ純粋な想いだけを抱いていたのだ。

 ※ ※ ※ ※

 それからエリサは、何度も何度も陸へと通った。
 当たり前というべきか男の姿を見る事はなかったが、それでも良かった。いつかこうしていれば、また此処にやって来るかもしれない。
 そんな淡い期待を抱いて。それだけで幸せだったのだ。…胸にチクリと刺さる痛みに気づかないふりをしながら、エリサは確かに幸せだった。

「……エリサ、最近楽しそうね?」
「そうかしら」

 そんなエリサの変化を、もちろん昔から見て来た友人や幼馴染が気づかないはずがなく。友人はエリサの変化を寧ろ好ましいと思っているようで、まるで自分の事のように喜んでいた。
 尋ねながらも、全て解っているというような表情で笑う彼女に、少し前に自分が言った言葉を思い出し、少し気恥ずかしくなる。

「なんでも言ってね」

 その言葉に緩く頷き、エリサはまた今日も男と別れたあの場所へと通うのだった。
 そんなエリサの変化に気が付いたもう一人の存在の事など、もちろん男の存在で頭がいっぱいなエリサは、気が付きもしないのだ――。

「おばあさま、最近エリサが変なんです」

 その頃、エリサの幼馴染――高士朗は300年という長い寿命を持つ人魚の中でもひときわ長生きな物知りのおばあさんのところを尋ねていた。

「おや、お前が来るとは珍しいね。それで、どういう風に変なんだい」
「良くひとりで何処かに行っているみたいで…」
「ふふん、あの子も年頃だからねえ。誰か気になる人でも見つけて逢瀬でもしてんだろう」
「…っ、…そ、…そういうのじゃ…ないような気がして…」

おばあさんの言葉に地味にダメージを受ける高士朗は、それでもめげずに言葉を続ける。

「追いかけても、途中で撒かれてしまって。もし……言い付けを破って陸へ通っていたら…っ」
「ふーん、そうさねえ。あの子も人間に憧れる年頃かもしれないねえ。でも他の皆みたく1年もすればすっかりと飽きて此処の生活の方が良いと思い知るだろう。放っておきなさい」
「……おばあさま…っ、」
「人魚と人間は寿命も違えば、人間のように転生をすることなく300年の人生を全うして泡となって消えていく。人間のように争うこともない、辛いこともない。ただただ長い長い人生を楽しく過ごし後はゆっくり休めばいいんだ。こんなに幸せなことはないよ。――厳しいことを言うようだけどねえ、所詮人間とは解り合えないのさ。すぐに思い知るだろうよ」

 厳しい言葉とは裏腹にその瞳にはエリサや高士朗を気遣うような、痛ましいものを見るようなそれで。
 高士朗はそれ以上なにも言葉を紡ぐことは出来ず、唇に血が滲むほど噛みしめながら、ただただ足元でゆらゆらと揺れる水草を見詰めるしか出来なかった――。

 エリサは今日も男の姿を探していた。
 ただ一目その姿をこの目に焼き付けられればいい。言葉を交わさなくとも良いのだ。…男の前に姿を現せば、きっと驚かせてしまう。怖がらせてしまうかもしれない。人間は自分とはちがうカタチのモノを酷く嫌うと聞く。異種族と契りを交わすことも少なくない人魚にとってみれば、姿カタチなど大した問題ではないけれど、人間は人魚ほど寛大で心広いイキモノではないらしかった。
 実際のエリサは恐怖の対象とは正反対に位置すると言っても過言ではない。その神秘的な姿は恐れどころか可憐さを際立たせるものであるのだけれど。

「……あっ…!!」

 遠く、建物の影より探し人と思われる人影を認めた時、エリサは思わず歓喜の声を漏らした。
 船での一方的な邂逅。あの時となんら変わらぬ姿を瞳に映し、エリサは安堵の溜息を零す。もし何らかの後遺症でも残っていたら、と密かに心配していたのだ。
 その人はゆったりとした足取りで海辺へと歩を進めて来て、その傍らには見慣れぬ男を連れ立っていた。
 二人で寄り添い何か言葉を交わしている。それは、なんてことない光景のはずだ。はずだった。なのに。エリサの瞳にはしっかりと大地を踏み締める二人に、男の隣で同じように歩くその姿に、心臓が締め付けられる想いだった。

 エリサの下半身は、人魚の象徴とも言えるソレ。人間のような二本足は生えていなかった。
 つまり、憧れの人の隣に並んで歩くという行為は、エリサには一生叶わないことで。その時はじめてエリサの心には”人間が羨ましい”という気持ちが芽生えた。今まで疑問に思っていなかった、自分の身体のつくりに不満を覚えたのである。

 途端に、今まで焦がれていた男の姿をようやく認められ高揚した気持ちは萎んでしまった。見ていられなかったのである。
 楽しげに話す二人はエリサの目から見ても何らかの絆で繋がっている事が感じとれて、男と出逢ってから知った、心臓に小さな針で突き刺されたかのような苦い痛みを覚えた。そうしてエリサは、男の姿を瞼の裏へと焼き付ける暇もなく、そのまま勢いよく自分の住処である海の底へと、潜っていったのだった。

「ねえ、おばあさま。どうして人間は海の中では生きられないのかしら」
「突然どうしたんだい」
「別にたいしたことじゃないわ。海で溺れなければいつまでも生きられるって思っただけよ」

 エリサは、住処である御殿のとある一室にいた。そこには、人魚の中でもひときわ長く生きる物知りなおばあさんが棲んでいて、おばあさんはいつも海の生き物たちの悩みを聞いたり、色々な世界の話を聞かせてくれるのだ。
 おばあさんならば、エリサの悩みを解決する知識を持っているのでないだろうか。そんな、ほのかな期待を胸に抱いていた。

「エリサ…人間だって死ぬんだよ。人魚は300年の寿命を持っているけれど、人間はそれよりもずっとずっと短いのさ。ただ、人魚には死なない魂というものがない、またこの世に生まれ変わるということが出来ないのさ。人間は、死んでしまっても魂が生き続ける。あのきらきらと光るお星様のところまでのぼって、人間の国を眺めるようにして魂はあたしたちが見る事が出来ない神様の国へと昇っていくのさ」
「どうして、私たちには死なない魂は授からなかったの。たった一日でも人間になれて、そんな世界へと昇る幸せを授かれるなら、私そんな長い寿命なんていらなかったわ」
「滅多なことを言うものじゃないよ。あたしらは人間よりずっとずっと幸せなんだから」
「長く生きられたって、もう二度と美しいものを見られずに泡になって消えてしまうなら、そんなのは幸せじゃないわ」
「エリサ」

 咎めるようなおばあさんの声に、びくりと肩を震わせ、けれどエリサはキッと涙目でおばあさんを睨み付けるように叫んだ。

「私は嫌!」

 まるで駄々を捏ねる子供のように首を横に振って、エリサは癇癪を起こす。微かな期待さえも粉々に砕かれたような、そんな絶望感。

「エリサ」
「…ごめん、なさい」

 おばあさんは何も悪くないと、解っている。賢いエリサにはきちんと解っているのだ。けれど勝手とはいえ唯一の希望が潰え、エリサの心は深く深く傷ついていた。小さい涙混じりの謝罪に、おばあさんは悲しそうな笑みを作ると、エリサの頭を優しく撫でた。

「でもね、もしも人間が貴女のことを一等好きになってくれて、ありったけのまごころで貴女一人のことを好きになってくれて。そこでその人間の右手をあなたの右手に乗せて、この世も長い長いいのちの世も変わらない約束を立てる。そうするとその人間の魂が貴女に流れ込んで、貴女の魂も同じようにして死なない魂になるというのさ。けどねえ、そんなことは叶いっこないさ。なんせこの海の世界でなによりも美しいおさかなの尻尾を地上では醜いものとしているのだもの。美醜すらわからない人間は、不格好なつっかえ棒みたいなものを足なんて呼んでそれが良いつもりでいるのだからねえ」
「………、」
「さあさ忘れなさい、傷つきたくないのなら。所詮あたしらとは相容れない生き物なのさ」

 諦めさせる為に紡いだおばあさんの言葉が、皮肉にもエリサの心を慰めるものとなり、エリサは意を決したように頷くと、おばあさんに礼を言って部屋を退いた。

 ――もしも人間がエリサのことを愛してくれれば、エリサはその人の傍で笑い合える。それは、紛う事なくエリサにとっての、希望のひかりで。

 人間になりたい。人間になれば、きっと男はエリサのことを見てくれる。なんせ男の命を助けたのはエリサなのだ。きっと、直ぐには無理にでもいつかはエリサのことを意識してくれるようになるだろう。
 普段は冷めた考えの持ち主であるエリサだが、争いとも策謀とも無縁の生活を送ってきたのだ。その本質はひどく純粋で、穢れのない甘いそれだった。

「海の魔女なら…」

 なにか、知恵を与えてくれるかもしれない。あの魔女は皆から恐れられているけれど、叡智の持ち主だ。もしかすると人魚のおばあさんよりも、長く生きているかもしれなかった。
 そうと決まれば、エリサの行動は素早い。帰って来た時と同じように、こっそりと御殿を出ると、海の魔女が棲むと言われるおどろおどろしい森の奥へと向かうのだった――。

 ※ ※ ※ ※

「ん~?あっれぇ、珍しいお客さんだ」

 海の魔女、と言っても性別は女ではなく、男だ。最も、男性のカタチを取っているだけであって、その性別はないようなものなのかもしれないが。

「…フン、私が来ちゃ悪いっていうの?」
「フフ、トーリくん別にそんなこと言ってないよ?むしろあんまりお客サン来てくれないから嬉しいな♪」

 恐れられている割に気安い態度とふわふわとした言動。エリサは恐ろしいというよりも、むしろ海の魔女――トーリのこの言動こそが苦手であった。
 そうして恐れないエリサだからこそ、逆にトーリは気に入っているらしくこうしてたまにちょっかいを掛けられるが、大抵掛けられるちょっかいは酷く迷惑なものでしかない。

「お姫サマ、随分と楽しそうなことするね~」

 エリサが用件を告げるより先に、トーリはすべてご存知と言わんばかりの笑みを浮かべ、コテンとかわいらしく小首を傾げた。
 その実際の本質はかわいらしさとは掛け離れたものだったが、見目だけならば華やかさと儚さが混合した、不思議な魅力の持ち主である。エリサは見透かされる心地悪さと居心地の悪さから、つい眉根を顰めてしまう。

「いいよ、トーリくんが協力してあげる」
「!!」
「でも、そのかわり――」

 ――対価はきちんと、払ってもらうよ。

 今までのふざけた雰囲気は成りを潜め、そこに在るのは海の魔女らしい圧倒的な威圧感。蠱惑的な笑みに、エリサは雰囲気に飲み込まれそうなのを必死でこらえ、ただ頷くだけで精一杯だった。

「俺が調合したクスリをもって、日の出る前に丘の前まで泳いでいって。岸にあがってからそれを飲み干してね。そうすればお姫サマの欲しがってた人間が足って呼んでるものに縮まるから。ちょ~っと痛いらしいけど、お姫サマは我慢出来るよね?」

 ――でもね、忘れないで。
 少しだけ真面目な顔をして、トーリが告げたのはこのような内容だった。

 クスリを飲み干し、一度人間になってしまえばもう二度と人魚には戻れないこと。御殿へ帰ることも、親しくしている者や家族の元へは二度と戻れないこと。それから、男に愛されること。明けても暮れても自分だけを思い続けて、更に男と契りを交わし夫婦となり、約束を交わすこと。男の心が手に入らなければ、エリサは翌日にはもう、心臓が破れて泡になって死んでしまうこと。

 それでも良いのかと、問われてエリサは唇を噛みしめながらも頷いた。男のことを想うと、胸が熱くなる。こんなに好きになれる相手にはもう巡り会えないかもしれない。そう思えば、もう後には戻れなかった。

「ふーん…じゃあ約束どーり対価を貰おっと♪ンー何にしよっかな~………あ♡確かお姫サマはこの海の底で誰ひとりとして及ぶもののない歌声の持ち主だったよねえ。それじゃ、トーリくんはその声をもらおっかなぁ」
「……声、なんて」
「嫌?嫌ならトーリくんは別にいーんだよ」

 困るのは自分ではないと、そんな視線を向けられエリサはそれ以上言葉を紡ぐことが出来なかった。

「声が出せなければどうあの人と心を交わせばいいのかしら」
「え~、お姫サマはまだまだ、たくさん持ってるじゃない」

 ――その身体も、瞳も、言葉を紡ぐことが出来ない可憐な唇も。どれもがエリサの魅力のひとつだ。

「その舌のかわりに、とってもいいクスリをあげる。どうする?」
「……お願い、」
「りょーかい」

 エリサの返事を肯定と取り、トーリは大きななべへと向きやった。火をくべれば、たちまちグツグツと中に入ったふしぎな液体が煮立つ音が部屋中に谺し、なんともいえないかおりが立ちこめる。トーリは仕上げとばかりに、自らの指先に刃を突き立て、それをなべへと流し入れた。

「あは…っ、いたぁい」

 思いのほか深く刺しすぎたのだろう。傷口からは次から次へと血の玉が浮かび上がり、それは滴となりなべへと落ちていく。
 恍惚の表情を浮かべたトーリから視線を外し、奇妙な色を放つなべを覗き込んでいれば、やがて飲み薬が煮えあがった。

「かんせーい」

 トーリの緩い掛け声と共に、エリサはハっと顔をあげ、覚悟を決めた。飲み薬は小瓶へと移し替えられ、手渡される。
 そうして、トーリの手がエリサの唇へと伸ばされ、顎を掴まれると無遠慮に舌を掴まれる。

「んん…っ!!」
「ふふ、ちょっとだけサービスしてあげるね」

 楽しげなトーリの声。次の瞬間口内に激しい痛みを覚え、やがて血の味が口中に広がりエリサは思わず顔を歪ませた。トーリの魔法により、舌を切られたのだということがわかり、息を呑む。

「さあ、森に勾引される前にお行き」

 ――じゃないと、王子サマに出逢う前にバッドエンドになっちゃうかも。
 冗談めいた口調の忠告に、エリサはコクリと頷くと、ゆったりとした足取りで自分の御殿へと向かっていた。行きよりも足取りが重いのは、仕方ないだろう。覚悟していてもあまりに対価が重すぎた。
 すべてを擲って、それでもあの人を選んだのだ。もう、選んでしまったのだ。
 もうすぐ触れ合えるという嬉しさと、別れの悲しさと。ただ今は、もうすぐお別れとなる海の皆の姿を思い浮かべ、静かに涙する。

「ふふ、予想以上に面白いことになったな~」

 トーリはそんなエリサの後ろ姿を見送りながら、まるで新たな玩具を見つけた子供のように、残酷なまでに無邪気な笑みを浮かべたのだった。

 ※ ※ ※ ※

 エリサはすこし離れたところから、ずっといつまでも飽きることがないのではないかと思うほど長い時間御殿を眺めていた。
 もっと近付いてしまえば、きっと離れ難くなってしまう。言葉を交わそうとすれば、もう二度と言葉を交わすことが出来ないという事実に絶望してしまうから。その存在に、縋り付いてしまいたくなるから。

 ――だから、これでいいのだ。一方的なさようならが、相応しいのだ。

 ただ一言、さようなら。愛していたと。エリサを囲んでいたすべての優しいものに、世界に、ありがとう、と。音にならない言葉を、エリサは紡いでいた。

 男を見かけたあの場所へと、エリサは涙を流しながらも泳いでいく。陸へ陸へ。生まれ落ちた海を捨てて、すべてを擲って、愛する人の元へと。
 決死の想いで陸へと上がったエリサは、トーリの言い付け通りに喉を焼くほどの強い熱を発するそれを必死に流し込み、飲み込んだ。
 すると全身に鋭いもろ刃の剣を突き刺されたような激しい痛みを覚え、思わずその場に倒れ込む。激しい痛みに、悶えても唇から零れるのは音にならない喘ぎ声だけだ。

 やがて日のひかりが海の上へと輝きだした頃、エリサはゆったりと目を開く。どうやら痛みが過ぎて、意識を失っていたらしい。けれど意識を戻してしまえば、再びエリサの全身を激しい痛みが襲う。たまらない苦痛に思わず身体を丸まらせるといつからそこにいたのかエリサの前に影を作るようにして、誰かが立っているではないか。
 痛みをこらえ顔を上げると、そこにはエリサが恋いこがれていた男の姿があった。

「……お前は……」

 涼しげな声。はじめて聞いた。思ったよりも低いそれが驚く程すっとエリサの耳に馴染んで、思わず頬を赤らませながら目を伏せる。
 顔を俯かせば自然と視界には、自身の足が飛び込んで来て。見慣れたさかなの尻尾は、人間のそれへと変わっていた。そのことに思わずほう、と息を吐く。

「……顔を見せてみろ」
「…っ」

 そう言いながらも男の手は既にエリサの顎を掴んでいて、無理矢理顔を上げさせられて。
 至近距離で瞳がかち合わせ、その瞳に含まれた強いひかりにエリサは魅せられた。今まで見て来た誰よりも、綺麗だと思ったのだ。

「…まだ子供だな」

 どこか痛ましげな、気遣うような声。けれどその声にはそれ以外のなにか、エリサが今まで生きて来た中で向けられたことのない感情が含まれているような気がして、エリサは小首を傾げた。
 男はぼんやりと何かを考えるように顎に手を置いていたが、やがて自身の羽織っていた薄い衣を、エリサの頼りなげな肩へと掛けてやる。…そう、人魚から人間に変わる過程で、都合良くありもしない布に身を包まれるはずもなく、エリサは生まれたままの姿でいたのだ。

「お前は何処から来たんだ?名前は」

 エリサの目線に合わせるようにかがみ込んで、矢継ぎ早に問いつめる男にエリサはただ困ったような表情を浮かべるだけ。口をききたくても、もうエリサには声を出すことが出来なかったから、男の質問に答える術を、エリサは持ち合わせていなかった。
 その事がかなしくて、申し訳なくて、エリサはよほど泣きそうな顔をしていたのだろう。男は小さく息を吐くと、エリサの頭をすこし強めにぐしゃりと撫で回すと、エリサの手を取って、起き上がらせる。

「いつまでも”こんなとこ”に居ても仕方ないだろ。とりあえず保護してやるよ」
「…」

 長い時間を掛け男に連れられ歩を進めるが、一足ごとに鋭い刃を足裏に突き刺されているような激痛が走り思わず顔を歪ませる。
 その事に気が付いた男が足をくじいているのだと思ったのだろう、エリサに一言告げてから、ゆったりとエリサのことを抱き上げた。
 ふわり、と身体が浮く感覚。男の腕の中に抱きしめられ、その熱量を直に感じ、自然とエリサの頬には熱が集まっていく。どれもこれもはじめての体験ばかり。男といると、いつだってエリサは新しい感情を与えられる。

 ――そのことが嬉しくて、気恥ずかしくて。
 エリサは男の胸に鼻を擦り寄せるようにして、顔を埋めたのだった。

 ※ ※ ※ ※

 男の名前は、万里というらしかった。それからすぐに本人の口から紹介があり、エリサはすぐにその名前を心に刻んだ。
 男――万里はひどくエリサのことを可愛がってくれた。可愛らしい洋服を沢山持って来てくれたり、口が利けないことが分かると、筆談が出来るようにとエリサの為に筆記用具を持って来てくれたり、退屈しないように舞や歌を見せてくれたり。
 人魚であるエリサが人間の文字を分かるはずがないのだが、良いのだ。万里のその気持ちが溜らなく嬉しかったのだから。…これで漸くエリサの名前が知れると笑っていた万里を思うと、少し胸が痛かったが。

 エリサの美しさはすぐに屋敷で話題となった。もっとも万里が呼んだどんな踊り子よりも、どんなお嬢さんよりも可憐で、美しいのだから話題にならない筈がないのだけれど。
 万里はエリサのことをとりわけ可愛がってくれたが、どうもペットに対するそれのような気がしてそこだけが少しエリサは気に入らなかった。しかし、やはり姿を見かけると手招かれたり、頭を撫でられたり、恋い慕っている者に構って貰えれば嬉しくない筈がないのだ。

 万里からすればまだ幼い、だというのに重い事情を抱えているエリサのことが気がかりで仕方なかったのだろう。いつまでもここにいるといいと言い、エリサを自分の部屋の近くへと置きたがった。
 そうして何処へ遊びに連れていくのでも、エリサを連れていくのだ。例えばそれは狩りだったり、町へと遊びにいく時だったり。
 エリサは万里が王子というものだということも最近教わったばかりだ。随分と豪華な部屋や洋装から察しても良いものだが、なんせ人間の常識とは外れているエリサの常識では、そんなこと考えもしなかったのだ。

 どこまでも万里の後について、まるで生まれたてのヒヨコが親鳥について回るようなそれに、いい顔をしない者もいたが、二人はそんなことお構いなしと言わんばかりに常に寄り沿い過ごしていた。

 幸せだった。まごうことなくエリサはその時今までで一番、幸せだったのである。言葉を交わさなくとも、心は通じ合えると。
 そう、確信していたのに。なのに――。

 ある日のこと。エリサは大理石の階段のうえに座っていた。そうして相変わらず痛み続ける足をつめたい海水にひたし、ぼんやりと故郷のことを考える。
 戻りたいと、そう思ったことは一度や二度じゃない。けれど、もう二度と戻れないということもエリサは痛いほど分かっている。どれだけ恋しく思っても、海に焦がれてももう自分の居場所は海の中じゃなく、万里の傍なのだ。
 そのことが幸せなはずなのに、少しだけ胸が痛むのはそのどちらもがエリサにとって大切で、愛おしい存在だからだろう。かた一方を切り捨てることなど、そもそも出来ないのだ。こころは、そんなに単純なものじゃない。

「……エリサちゃん」

 懐かしい声に、視線を遣る。するとそこには…一体いつからいたのだろう。今にも泣き出してしまいそうなほど悲痛な表情を浮かべる幼馴染の姿があった。

「……、」

 高士朗、と呼ぼうとして…もう自分には言葉を交わす術がないのだということを思い知りまた唇を噛みしめる。
 そんなエリサの姿に気づいたのだろう。高士朗もまた、自分のことのように苦しげな表情で、唇を噛みしめていて。

 ――どうしてアンタが、そんな顔してるのよ。

 表情と口だけを動かし、そう告げれば高士朗は余計に悲痛なそれに変わり、ついにはぐずぐずと鼻を鳴らし出した。

「なんで、エリサちゃんが…こんなっ」

 ――相変わらず、泣き虫なんだから。私はいいのよ、自分でそう望んだんだから。放っておいて、高士朗のクセに、こんなところまでノコノコやって来て、もし人間に見つかったらどうするのよ。

「……こんなのって、ないよ…っ」

 ――うるさいわね。私は幸せだから、コレで満足してるんだから放っておいて頂戴。高士朗のくせに、生意気ね。

 言いたいことは沢山あるのに、そのひとつもこの唇から零れることはない。高士朗の心を慰めるようなかわいらしい憎まれ口のひとつすらも、与えてやることは出来ないのだ。もう、二度と。

「エリサちゃん。向こうでは皆すごく寂しがってるよ。みんなみんな、エリサちゃんの帰りを待ってるんだよ」

 整ったかんばせを歪ませ、波打ち際から懇願するようにエリサの顔を見上げて来る高士朗に、エリサはただ困ったような、悲しげな笑みを浮かべて首を横に振ることしか出来なかった。

「……っ、また…来るから…っ」

 エリサの優しい拒絶にも高士朗はめげることなくそれだけ言い残すと、また現れた時と同じように静かに海底へと潜っていく。
 そんな高士朗の姿を見送りながら、エリサはまたぼんやりと海底の世界に想いを馳せながら、それでも万里の傍でこうして居られる今を、手放そうという気など更々なくて。
 ただほろ苦い胸の痛みに瞳を閉じ、毎夜のように静かに涙を流すことしか出来ないでいたのだった。

 高士朗は宣言通り、毎晩のようにエリサの前に現れた。時折エリサの友人や魚たちもエリサに会いに来てくれたが、やはりエリサを連れ戻しに来たその誰の言葉をも拒絶することしか出来なかったのだ。
 皮肉にも、エリサがそうした夜を過ごす度に、万里の寵愛は更に深いものになっていく。まるで子猫をそうするように万里にベッドへと連れ込まれ、逞しい腕に包まれ眠ることが多くなり、次第に皆が待つ海へと足を運ぶことが難しくなっていった。

 ――高士朗は、今日も懲りずに会いに来ているのかしら。

 万里の腕の中、エリサはぼんやりと幼馴染の事を考える。心優しい少年はエリサのことになるととても一生懸命だ。決して鈍くはないエリサが、それが淡い恋心から来るものだということに気づいていない筈もない。けれど、エリサがその気持ちに応える日は、きっと訪れない。
 エリサの心の中心にいるのは、いつだって自分を包み込むこの人だけなのだ。高士朗に抱く親愛の気持ちとは決して違う。すこしだけドロドロとした、自分でも制御することの難しいほろ苦い気持ち。決して綺麗なだけでは済まない、独占欲を伴ったそれ。

 この美しい、けれどいつだって何処か寂しげな瞳をした愛しい人をどうか自分の手で幸せにしてあげたい。いつだって笑っていて欲しいと思う。
 他の人間が万里の傍に居ることが、許せない。その手が触れるのは、自分だけであってほしいと願う。エリサは自分の中に、そんな激しい感情があることに酷く驚いたが、けれどその感情に振り回されるのがすこしだけ心地好くて。
 ゆっくりと、この人の心の奥底にあるかたく閉ざされた扉を開くのが自分であれば良いと願う。どうかこの人の唯一が自分であればと願う。
 はっきりと自覚した恋心に、何度エリサの小さな胸はいっぱいになり、押しつぶされそうになったことか。

 ふいに海の魔女――トーリの言葉を思い出す。男の唯一にならなくては、エリサは生まれ変わる魂を授かる道はないと。それどころかもし万里が自分以外をお妃にとしてしまった次の朝には、エリサは泡となって来えてしまうと。
 万里が自分のことをせいぜい妹か、ペットか。親愛の情しか抱いていないことは痛いくらいに自覚している。思わず溜息にも似た息を漏らすと、それがくすぐったかったのか、万里が小さく身じろいだ。

「どうした、眠れないか」

 優しい、労るような声。いつだってたくさんの人間に囲まれているというのに、その誰にも心を許さない孤高の人。
 そんな万里が自分に心を許してくれているのだと思えばそれだけでエリサの目頭は熱くなり、涙を見せぬように万里に甘えるようにして逞しい胸板に頬を擦り寄せる。
 いつだって万里は凛としていて、けれどその背中は、瞳は痛いくらいに寂しいものだ。エリサはいつもそれが苦しくて悲しくて切なくて、後ろから勢いよく飛びつくように抱きつく。そうすれば万里はすこし驚いたように目を見開いた後、ふっとすこしだけ口許を緩ませ、それからエリサの頭をぽんぽん、と優しく撫でてくれるのだ。
 どうか貴方はひとりではないと。私が傍にいるのだと。自分の存在を伝えるように、つよくつよく縋り付く。この小さな身体が、すこしでも万里のこころの支えになればと、そう願っていた。

「悪い夢でも見たのか?…それじゃあ、少し寝物語でもしてやろう」

 まるで子供を慰めるようなそれが、けれどエリサは嫌いではなかった。
 こうして万里に接される度、甘やかされていると感じる。気恥ずかしさと、それ以上の喜びを覚えてエリサは万里の低い、落ち着いた声色に耳を傾け、ふにゃりと口許を緩めるのだった。

「そうだな、なにが良いか……ああ、そうだ」

 思案を巡らせていた万里の声色が少しだけ明るいものになり、きっと良い話題が思いついたのだろうということがわかる。エリサの指触りのいい髪を撫ぜながら、万里はゆったりと口を開いた。

 ――きっと物語は聞き飽きただろうから、すこしだけ俺の話をしてやろう。

 万里から与えられるものならば何度同じ話をされたって、飽きることなんて有り得ないけれど。それでもやはり万里の話というところに興味を惹かれて、思わず顔を上げたエリサが現金だと思ったのだろう、万里はクツクツと喉を鳴らし笑ったのだった。

 結論から言えば、万里から紡がれた物語はエリサがよく知っている――あの日のそれだった。
 エリサと出逢った、正確にはエリサが万里の存在を認めたあの日のこと。船が難破されたあの日、万里は不思議な女の子の夢を見たらしい。それは人間よりもよほど神秘的な、とてもうつくしい娘だったそうだ。
 そうしてその娘が、エリサにとても良く似ていると。姿形ではなく、瞳がまるで娘に生き写しなのだと。万里はその娘を夢の中の産物だと思っているが、いつまでも心から離れないのだとも。あれは女神で、自分を助けてくれたのかもしれないと。普段信仰心など微塵もない万里だが、その時だけは心の底からそう思ったそうだ。
 そうしてエリサを砂浜で見つけたとき、ひどく驚いたと。そしてその姿を認めた瞬間に、湧き出たのは激しい怒り。発育が良いとはいえ、エリサはまだ紛うことなく子供である。そんなエリサが生まれたままの姿で、海水に熱を奪われきって、ひどく消耗した様子で在る。
 万里には、それが人さらいかなにかに勾引され、酷い目に遭いながらも命からがら逃げ延びたのだと理解したのだ。事情を尋ねれば、エリサのかわいらしい舌は切られ、言葉を紡ぐことが出来ないという。
 直ぐに手放すつもりだったと。元気になれば何処か平和に暮らせるところにでも寄越す気でいたらしい。けれど、傍に居させれば居させるほど、離れ難くなった。身よりもなく、自分を一心に慕ってくれるエリサがかわいらしくてたまらなくなったと。

「もうお前は俺のものだ」

 自分に目を付けられたのが運の尽きだと。一生手放してなんかやらないと。

 まるで寝物語には相応しくない物騒なそれも、エリサの喜ぶものにしかならなかった。
 もとよりエリサの居場所はこれから先もずっと万里の隣だけなのだ。むしろ、万里に飽きられて自分が泡になる、そんな瞬間まで、言われなくてもその居場所に居座る気でいたのだから。

 万里の話から、エリサは万里は自分が命を救ったことを知らないのだということを知った。エリサの瞳に良く似たその人のことはよく分からないけれど、きっと意識が薄らとしていた時にエリサの姿を見て、それを夢だと思ったのだろう。
 楽観的な考え方だが、そんな些細な事エリサにはどうだって良かった。今、いちばん万里の傍にいるのは間違いなく自分で。ゆっくりと時間を掛け、エリサのすべてを万里に捧げよう。愛も、労りも、優しさも。全部全部、万里だけのものなのだから。そうして、いつか万里の心も自分に向いてくれれば、それはとてもとても幸せなことなのだ。

 ※ ※ ※ ※

 人間というのは、しがらみに囚われ思うままにならない生き物だ。人魚とはまるで違うそれにエリサは途方に暮れた。

 ――万里が、隣の国の綺麗なお姫様を妃に迎えることになったのだ。
 政略結婚、という奴だということも、いつまでも自分の傍にエリサを置き続けるということも万里の口から聞いてはいる。
 でも、でもそれでは駄目なのだ。魔女の条件は”万里の唯一になること”。他の娘を妻に迎えてしまえば、どれだけ万里がエリサのことを可愛がっていても、それまで。そもそもまだ万里は、エリサのことを恋愛感情では見ていない。

 ――どうすればいい。どうすれば、万里は他の人間を妃に娶ることを止められるのか。
 人間の知識など、万里に与えられた程度にしか持ち合わせていないエリサには、もちろん打開策など浮かぶはずもなく。ただ焦れたように久しぶりに、大理石の階段の上に座り込んで、暗い海を見詰める他なかった。
 そうしているとやがて再び、見慣れた幼馴染の姿がこちらに向かってくるのが見える。

「エリサちゃん…」

 ひどく痛ましげな瞳。久しぶりに会った幼馴染は、随分とやつれていた。きっと彼をそうさせてしまったのはエリサなのだろう。ズキンと痛む胸をぎゅうっと掴むと、なんでもないふりをしてエリサは高士朗に笑いかける。
 もしかすると海の国にも、王子の――万里の結婚話は伝わっているのだろうか。今にも泣き出してしまいそうな高士朗の頭をかるく叩くと、かつて彼に向けていた勝ち気な笑みを口許に携え、エリサは首を振った。
 これはせめてもの強がり。自分で決めた道なのだ、どういう結果に終わっても最後まで諦めずに突っ走る他ないのだから。せめて、せめてこの心優しい幼馴染を巻き込みたくないというのは、エリサの優しさからだった。最も、高士朗からすればその優しさは残酷以外の何者でもないのだろうが。

 どれほど望まなくとも、夜は明ける。明けてしまう。
 ついに、万里が花嫁を迎えに行く日が来てしまった。そのときエリサは立派な船の上にいて、万里の隣に寄り沿っていた。
 万里はエリサに折角だから海を堪能すると良いとわらうが、まるで嵐のあの日のように荒れ果てたエリサの心には、故郷に想いを馳せる気などさらさら持てなくて。

 あくる日――とうとう、船は隣の国の、きらびやかな都の港へ入ってしまった。街はすっかりと祝福モードで、そこかしこからラッパの音や、鐘の音が響き渡って。そうしてその中から立派な兵隊が、旗や銃剣を掲げ行列している。
 それからは、毎日がお祭りのように賑やかな催し事が続いていた。例えばそれは舞踏会だったり、宴だったり、お祭りだったり。
 はじめて見るそれらにも、エリサの心は踊らない。エリサの元気がないことには万里も気づいていたが、それだけだった。今の万里にはエリサの心を元気づけることなど出来ないのだ。
 優しくされればされるほど、辛くなる。苦しくてみっともなく縋りたくなってしまう。万里が花嫁を娶るその日が、エリサにとっての終わりの幕開けなのだ。万里は当然のことながら、それを知らない。――むしろ、万里にとってはその後がエリサとの新しい日々のはじまりだと。そう、思い込んでいるのだ。

「いつまで拗ねているんだ?」

 知らないから、万里はエリサがただ拗ねているだけなのだと思っているのだろう。エリサは万里の問いかけに、どう反応を返していいか分からず、ただ諦めたような笑みを零すしか出来なかった。
 それがきっと万里には気に入らなかったのだろう。すこしだけ詰まらなそうな顔をすると、小さく縮こまるエリサの脇腹あたりを掴み、まるで高い高いをするように持ちあげた。

「心配することなんて何一つない。俺はお前を手放さないのだから」

 大きな権力を持っているからこそ、本当に心を許せる存在など片手で数えるほどにしかいなかった万里にとって、エリサは本当に希少な存在だった。
 大人になるにつれ、親しくしていた者たちは様々なしがらみに囚われ万里の敵と化していく。駆け引きなしに親しくしていたそれが、益が絡むそれへと変わっていく。
 そんな人間関係に、万里は疲れ果てていた。エリサと一緒に居られる時だけが、万里にとって一番心休まるその時だったのだ。
 万里の言葉にエリサは瞳を揺らす。その言葉が、誓いの約束と成り得たら良いのに。例えそれが恋慕の情ではないとしても、唯一として月がふたりのことを認めてくれればいいのに。

 ――けれど、それは不可能なことで。

 万里にとって、エリサは大切な存在だ。けれど唯一とは成り得ない。エリサのことを考え、エリサだけしか要らなくなる。そんな誓いを立てさせることは、ひどく難しいことだった。
 それは万里が人間であったから。どれだけ大切なひとを見つけたとしても、ただひとつだけを大切にして他のすべてをかなぐり捨てることなど、そもそもが不可能な話なのだ。大切なものは時を刻めば刻むほどに、増えていく。ただ一人唯一を見つけたからといって、それだけを思い続けるなど。

 エリサは万里の言葉にふわり、とひどく場違いなほどに柔らかな笑みを浮かべてワンピースのポケットからひとつの紙切れを取り出すと、それを万里へと差し出した。

「?」

 突然のエリサの行動に、当然万里は驚くが抱き上げていたエリサをやさしく地面へと下し、それを受け取る。
 カサリと紙が擦れる音が響き渡り、二つに折り畳まれたそれをゆっくりと開く。するとそこに書かれたのはいびつな3つの文字で。

「エ、リ、サ…。これは…名前、か?」

 確かめるように問いかける万里の言葉に、エリサはこくりと頷く。ひそかに、エリサは人間の文字を練習していたのだ。
 人魚のそれとはあまりに違う形態に、自分の名前を書くだけで精一杯だったけれど、どうしても万里の口から自分の名前を紡いで欲しかったから。自分という存在を知って欲しかったから。

「そうか。よく似合う」

 珍しく柔らかくわらう万里の笑顔にときめきながら、エリサは万里の穏やかな声で紡がれた自分の名前を何度も心の中で繰り返す。自分の名前がひどく尊いそれであるように錯覚したのである。

 ※ ※ ※ ※ 

 街中の祝福を受けながら、花嫁花婿はお城のバルコニーから、うつくしい衣装に身を包みながら笑みを振りまいている。
 エリサは、花嫁のドレスの長い裾を持ちながらぼんやりとそんなふたりの後ろ姿を眺めていた。
 お祝いの音楽もひとびとの輝く笑みも、そのどれもがエリサの目にはうつらない。ただ唯一エリサの瞳にうつるのは万里の後ろ姿だけ。相変わらず凛としたその姿は、かわらず悲しみに満ちていて。ああ、いますぐに持ちあげた裾を放り出して万里の背中に飛びつけたなら、どれだけ良かっただろう。

 こうして地面に足をつけ、立つという行為すらエリサには相変わらず耐えきれないほどの痛みしか与えないというのに。それでも今だけはこの痛みすらも愛おしいものでしかなかった。それ以上に、この胸が引き裂かれるほどの痛みの方が、耐えきれなかったから。

 もう、あの姿をうつすことも、エリサと優しく名前を呼んでくれる声を聞く事だって、抱きつく事だって、あの寂しい人を温めてあげることだって、出来ないのだ。なにひとつ。
 エリサは今日限りで泡になる。人間のように、なにかひとつだって万里に遺してやれることは出来ないのだ。

 この人のために、エリサはすべてを捨ててきた。故郷だって、友人だって、親だって、声だって。痛む足にすら耐えて、ただ万里の傍に在る事だけを願って生きて来たというのに。

 ――それも、すべて今日で最後。

 きっと日が昇れば、お日様のひかりが自分を殺しに来るのだ。明日も明後日もなにも知らないままに、万里はエリサの姿を探すだろう。ああ、ああ。またあの人を孤独にさせてしまうのだ。そのことがたまらなく辛くて、苦しかった。

 やがて、お披露目が終わると万里は花嫁を連れ何処かへと消えてしまった。エリサを置いて。
 仕方ない。仕方ないことなのだ。どれだけ万里が自分を大切にしてくれていたって、万里の妻は自分じゃない。
 街のどこへ行っても、聴こえてくるのは二人の話題ばかり。エリサは逃げるように町外れの海岸へと走り、冷たい海水に足を浸からせながらぼんやりと、すっかり夜の帳が下がった空を眺めることしか出来ないでいた。 
 するとふと波のなかから見慣れた幼馴染や友人が出て来るのが見えた。けれどどうしてかその姿に抱いた違和感に、思わず目を剥く。
 友人はその美しい髪を無くし、幼馴染は見た目の変化はないようだが、何処か様子が可笑しかった。何故か頬を赤らめ、モジモジしているように思える。

「エリサ、どうして教えてくれなかったの」

 美しい宝石のような瞳に、大粒の涙を溜めて友人は嘆く。珍しく声を荒げた友人の姿にエリサは驚いたように息を呑んだが、その表情はすぐに悲しげなそれへと変わっていって。

「魔女に髪をあげたわ。エリサを助けたかったから!死んで欲しくなかったから!!」

 美しいと評判の髪の毛を。あんなに大切にしていた髪の毛を。
 彼女はエリサのために捨てたという。

「ねえ、この短刀を見て。ほら、よく切れそうでしょう?これで王子の胸を刺せば、その血がエリサの足にかかって、エリサは前みたいにおさかなの尾に戻れるの。また、昔みたいな人魚の娘になるのよ」
「エリサちゃん、お願いだよ…」
「帰りましょう。ねえ、エリサお願いよ…戻って来て…」

 ふたりの懇願から痛いくらいにその気持ちが伝わってきて、エリサはぎゅっと唇を噛みしめた。
 半ば無理矢理に押しつけられた短刀が、その存在以上の重みを伴って、エリサの腕にずっしりとしたその冷たい存在を感じさせて。
 そうしてふたりは祈るようにエリサの方を何度も何度も振り返りながら、ゆったりと海底へと帰って行った。
 残されたエリサはただ二人が消えていった海をジッと見詰め、手のひらの冷たいそれをぎゅっと胸に抱くしか出来なかった。そうして段々と赤らんでいく空に、夜明けが近いと知る。非情なタイムリミットは、ちかい。

 エリサは屋敷に戻り、万里に宛てがわれた部屋の前へと立っていた。おそらくここに、万里とその花嫁が眠っている。いつもはエリサの場所であるはずのそこに、花嫁を抱いて。
 その姿を想像しただけで、エリサは吐き気を覚えた。気持ち悪いくらいの胸の痛みはじくじくとエリサの胸を蝕む。どす黒い感情が芽生え、処理が追い付かないほどにそれをエリサの心に染み渡る。

 見たくない。開けたくない。…このまますべてを擲って、逃げ出してしまえたら。…でも、それはかなわない。
 意を決したエリサはぎゅっと唇を噛みしめながら、ゆったりとその扉に手をかけた。……予想していたエリサの侵入を拒む鍵は、掛かっていなかった。
 不思議に思ったエリサだったがこうしていても仕方ないと思ったのだろう、慎重な足取りで万里が眠るベッドへと近づいて行く、とそこには思わぬ光景が広がっていた。

 花嫁の姿が、なかったのだ。万里はひとりでそこに眠っていた。大きなベッドの、いつもエリサの眠るスペースをあけて、窮屈そうに。

 ――どうして。エリサは声にならない言葉を心のなかで呟く。
 愛おしい。やはり自分はこの人が好きだと。何度だって、思い知らされる。
 どうしてか泣き出したくなったエリサは、たまらなくなって万里の眠るベッドへと上りその腕の中に飛びつけば、耳に届く力強い心音にまた泣きたくなった。
 思わず見た目よりも柔らかい髪を撫で上げ、むき出しになった額に唇を寄せる。そうすればすこし眉根に皺を寄せて難しい顔をしていた万里の表情が、すこしだけ緩んで柔らかなものになった。

 窓から差し込むひかりは、先ほどよりも強いあかね色をくっきりとさせていて。ああ、もう時間がないのか。いつまでもこうして万里の腕の中で微睡んでいたいけれど、きっとそうもいかないのだろう。
 短刀がエリサを急かすように赤い光を放っていて。この短刀を振りかざし、無防備にエリサを抱き寄せている心臓へと突き刺せば、きっとエリサは幸せになれる。人魚としての、エリサなら。
 けれど人間としての、女としてのエリサは泣くだろう。泣いて泣いて、最後まで後悔するだろう。

「ん…エリ、サ……?」

 寝惚けているのだろう。万里はエリサの姿を認めると、ふっと口許を緩め安心したような表情を浮かべた。その瞬間、エリサは弾かれたように窓際へと駆け、禍々しい短刀を海へと投げ入れてしまう。投げたところに赤い光がさし、そこから血のしずくが吹き出した。…もし、あれで万里を刺していたらきっと今頃エリサは泣き崩れていただろう。
 これで良い。これで良かったのだ。友人や高士郎にはすごく怒られてしまうだろう。けれど、そもそも最初から愛するひとを手にかけるなんてエリサに出来る筈もなかったのだ。
 だから――。

「    」

 ――さようなら、愛してた。今も、これからもずっとずっと愛してる。

 もう半分うつろな目で万里の寝顔を眺めると、エリサはふわりと花開くような笑みを浮かべ、そのまま海のなかへと飛び込んだ。
 人魚の時には感じなかった、冷たい海水がエリサの体温を奪っていく。その冷たさに身を任せ、エリサはそっと瞳を閉じた。そうしていると段々とエリサのからだが泡になって溶けていくのが分かる。不思議と、痛みも恐れもなかった。

 ――ただどうか、あの人が少しでも幸せでありますようにと。
 自分のからだはもう半分もないというのに、エリサは不思議と穏やかな表情のまま、ただひたすらに愛する人のことを想っていた。

 日の光が海の上にのぼりその光はエリサの、つめたい泡の上に差し込んで。エリサはゆったりと瞳を開けると、自身を優しく照らす太陽を仰ぎ祈るように手を組んだ。消えていく、自分という存在が泡になって海の中へと還っていく。
 泡となったエリサのからだを太陽が照らせば、やがてそれは不思議な光を帯びて泡のなかからだんだんと空の上へと上がっていくのがわかった。

「ようこそ、エリサ。よくも苦しみを堪えましたね。あなたはいま空気の世界へ、自分を引き上げるまでになりました。あと300年、よい行いのちからでやがて死ぬ事のない魂を授かることになるでしょう」

 男性とも、女性ともつかない中性的な声色。どこまでも柔らかいその声に、エリサは自分が空気となってこれから先一方的とはいえ万里のことを見守っていけるのだと、そう思えばそれはすごく幸せなことのように思えて。

「…あと300年すれば、天国に昇っていけるのね」

 そうして死なない魂を手にすれば、次はエリサは人間として生まれ変わることが出来るだろうか。今度はごく当たり前に言葉を交わし大地を踏み締める足を手に入れ、万里と同じ世界に生きることが出来るだろうか。

 そのとき、不意にエリサを探す万里の声が聴こえた。きっと寝室に未だエリサが帰って来ていないのを不審に思ったのだろう。

 空気に溶けたエリサのからだは、世界中のどこへだって意識ひとつで飛ばすことが出来るのだ。
 ああ、万里を悲しませることだけはしたくなかったのに。それでも自分を探し求めて悲しんでくれることが、すこしだけ嬉しくて、愛おしくて。
 エリサは意識を集中させると、万里のもとへと飛んでいった。そうしてまるで迷子の子供のような頼りなげな様子でエリサの姿を探す万里の鼻にちょこん、と口づけを送って頬を撫でたのだった。…最も、万里にはただ悪戯に風に頬を撫でられたとしか思えないだろうけれど。

 ――いつまでも貴方の傍にいるわ。姿は見えなくても、ずっとずっと貴方を守るから。
 愛してる。愛していた。ずっとずっと、これからも愛してる。

 この結末がバッドエンドなのか、それともこれ以上ないほどのハッピーエンドなのか、エリサにはわからなかったし、考えるつもりもなかった。
 ただ分かるのは、これからもずっとずっと、万里の傍にいられるのだという事実だけ。けれど、それだけでもう、エリサにとってはこれ以上ないほどの幸福なのだ。

「エリサ?一体何を読んでるんだ?」
「……ふふ、なんでもないわ」

 仕事中の兄の部屋に侵入し邪魔をしないから一緒にいたい、と告げたのは今から1時間前のこと。
 エリサは大好きな兄の背中を眺めながら幼い頃からお気に入りである童話を読んでいた。普段のエリサならば、もう童話など卒業したと見向きもしないが、この話――人魚姫だけは別なのだ。

「お兄ちゃん、大好きよ」

 あの頃言えなかった言葉。あの頃から――否、あの頃よりもずっとずっと強く恋い焦がれている相手が、よりによって血の繋がった兄弟になるだなんて、なんの因果かと思うがそれでも誰よりも近くに在れることが幸せで堪らなくて。
 エリサはひどく幸せそうに笑いながら、あの頃のように大好きな万里の背中にタックルをかますようにして飛びついたのだった。

End

ご主人様LOVE企画に参加させて頂きました。人魚姫をモチーフにした主エリ。
いろいろな恋のかたち第一弾『アガペー』
お題は【確かに恋だった】さまよりお借りしました。